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どこにあった?「スパ・タウン・ハロゲート」のかつての鉱泉の場所とは?

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ハロゲートの歴史は「温泉」と切り離すことができません。

1571年、ウィリアム・スリングビーが「テウィット・ウェル」の鉱泉を発見して以来、ハロゲート内で次々に鉱泉が見つかり、その効能が評判となり、ハロゲートは20世紀初頭まで王室や著名人をはじめとする多くの訪問者を引きつける流行のスパタウンとして栄えました。ハロゲートの温泉は、癒しの場であるだけでなく、社交の場としても重要な役割を果たし、町の経済基盤を形成しインフラの発展にも大きく寄与しました。

現在では、スパタウンとしての役割は薄れてしまいましたが、町の至るところで今でも温泉の痕跡を見つけることができます。ハロゲートの歴史を調べると、この町が温泉を中心に発展してきたことがよくわかります。昔の地図を見ると、街中に数多くの鉱泉の井戸があったことと(すべてをリストアップするのは難しいです)、ハロゲートが豊かで恵まれた土地であったことに驚きました。

おそらくこの記事がそんなに読まれることはないとは思いますが(内容がマニアックなので笑)、趣味の範囲内ですが、どこに何の鉱泉があったのか記してみようと思います。ハロゲートが王室を深く敬っていたため(他の地域もそうだとは思いますが)、多くの施設に「ロイヤル」や「ビクトリア」といった名前がつけられたり、名称変更がよく行われていたりして、リサーチしながら少し混乱する部分もありました。
いずれにしても、過去にタイムスリップしたような気分を味わえたのでとても楽しかったです。

(ロー・ハロゲートは、オールド・サルファー・ウェルとその周辺を総称した古い名前で、ヴァリー・ガーデン、クレセント・ガーデン、モンペリエ・エステート、パーラメント・ストリートなどが含まれます。ハイ・ハロゲートはテウィット・ウェル、セント・ジョンズ・ウェル、クイーンズ・ヘッド・ホテル(現在のCedar Hotel)、ドラゴン・ホテルの辺りの総称です。)

目次

テウィット・ウェル(Tewit Well)

ハロゲートテ ウィットウェル
Image ウィキペディアより

テウィット・ウェルは、現在も「ザ・ストレイ」の南側(Leeds Road側、Slingsby Bridgeの近く)に位置しています。

ハロゲートのスパ・タウンとしての歴史は、この場所から始まりました。1571年、ウィリアム・スリングスビー(William Slingsby)が王家の森(かつては「ナーズバラの森」だった)を馬で通りかかった際、湧き出る水を発見し、その奇妙な味わいに気づきました。この水はおそらく地元では古くから知られていたものでしょうが、スリングスビーはヨーロッパの有名なリゾート地で鉱泉を体験したことがあったため、これが鉱泉であると確信しました。後にハロゲートがイギリスで最も有名な温泉地となるのは、スリングスビーのこの発見によるものです。

スリングスビーはこの水を人々にも勧め、井戸を整備し、壁で囲んで利用できるようにしました。そしてこの発見を医師の友人に伝え、1626年にはヨークの著名な医師エドマンド・ディーン博士が著書「Spadacrene Anglica」で彼の発見について言及しました。また、ティモシー・ブライト博士がこの地域を「イングリッシュ・スパ(the English Spaw)」と呼んだことで、これがイギリスで「スパ」という言葉が初めて使われた記録となりました。

こうして、テウィット・ウェルはイングランド最古のスパであると位置づけされました。その名称はバースに使われたよりも早かったとのことです。とはいえ、鉱泉水はそれ以前から使用されていたはずです(それこそバースのローマ浴場など)。

この温泉は、イギリスのすべての鉱泉の中で、医療専門家の推奨に基づいて最も長い期間継続的に飲用された記録を持っているとのことです。

テウィット・ウェルを覆う建物は1808年にトーマス・チッペンデールが設計したもので、トスカーナ様式の半球天井が特徴です。この建物は元々「オールド・サルファー・ウェル(後述)」を覆っていましたが、破壊行為が続いたため、1841年に新しい建物が建てられ、古い建物はテウィット・ウェルに移されました。

残念ながら、テウィット・ウェルはスリングスビーの発見からちょうど400年後の1971年に閉鎖されました。その後、水道会社がこの地域で工事を行った際、イギリス最古の鉱泉を保護する措置は取られず、水源が残っているかどうかは不明だそうです。

現在のテウィット・ウェルはやや放置されているように見えます(若者がここで飲み会をしたりするそうで)今後もこの歴史的な場所が大切にされることを願っています。日本人の私がそう思っているぐらいだから、同じように考えている地元の人々やイギリス人も多いのではないかと思います。

ハロゲートテ ウィットウェル
桜の時期の「テウィット・ウェル」 桜に隠れてしまっています笑

セント・ジョンズ・ウェル(St John’s Well)

ハロゲートテ セント・ジョンズ・ウェル
Image : britishlistedbuildings.co.ukより

セント・ジョンズ・ウェルの建物は、現在もウェザビー・ロード(Weatherby Road)沿いに位置しています。

セント・ジョンズ・ウェルは、1631年にマイケル・スタンホープ博士によって発見された歴史的な鉱泉で、翌年に出版された彼の著書「Cures without care」にも記されています。この鉱泉の水は他の鉱泉に比べて澄んでいて飲みやすく、鉄分が豊富で、貧血や消化不良、ヒステリー性疾患の治療に効果があるとされていました。「スイート・スパ(Sweet Spaw)」や「カリビート水(Chalibiet water)」とも呼ばれ、17世紀以降、多くの人々がこの水を求めて訪れ、ハロゲートの重要な名所となっていました。

1786年には、アレクサンダー・ウェダーバーン(後のラフバラー卿で、イギリスの法務大臣、またベンジャミン・フランクリンを尋問した人物)がセント・ジョンズ・ウェルのポンプ室を建設しました。ウェダーバーンはこの地域を非常に気に入り、セント・ジョンズ・ウェルから数百ヤードのところに「ウェダーバーン・ハウス」という邸宅を構え、セント・ジョンズ・ウェルの整備にも力を注ぎました。

彼の妻、ロスリン夫人もこの井戸の水を好んで飲んでいたと伝えられています。セント・ジョンズ・ウェルを背にしてストレイの左手方向に見える大きな家が、ウェダーバーン・ハウスです。

現在のセント・ジョンズ・ウェルの建物は、1842年にロイヤル・ポンプ・ルームの建築家であるアイザック・トーマス・シャットによって再建された八角形の石造りです。しかし、ポンプルームとしての役割は1973年に終わりました。

ハロゲート 鉱泉 温泉 セント・ジョンズ・ウェル
古いポストカードより 「”The Chalybeate Well in Harrogate,” the John Well in 1796」

オールド・サルファー・ウェル(Old Sulphur Well)/ロイヤル・ポンプ・ルーム(Royal Pump Room)

クラウン・バス(Crown Bath)/モンペリエ・バス(Montpellier Bath)

ハロゲート 温泉 モンペリエ・ガーデンズ
クラウンホテル前のモンペリエガーデンズ(Montpellier Gardens)には、かつてモンペリエ・バスのチケットオフィスだった小さな八角形の建物が残っています。

現在、この建物にはチャイニーズレストランが入っています。この場所は「ロイヤル・バス」があったことで知られていますが、かつては隣接するクラウン・ホテル(The Crown Hotel)がこの一帯を所有していました。

クラウン・ホテルは1695年ぐらいから存在する老舗で、ジョセフ・サックレイが買収してからさらに繁栄しました。オールド・サルファー・ウェルのすぐ隣という好立地にありながら、1822年、彼の敷地内でも新しい鉱泉が発見されました。その中の「クラウン井戸」が有名になり、「クラウン・バス」が誕生しました。

1834年、サックレイは簡素で古典的なデザインを採用したモンペリエ・バスを建設しました。これは、1832年にジョン・ウィリアムズが建設したビクトリア・バスに対抗するためだったと言われています。
基礎工事中にさらに6つの井戸が発見され、その中にはハロゲートで人気だった「キッシンゲン井戸」も含まれていました。

19世紀の地図を見ると、サックレイの敷地はパーラメントストリート(現在のロイヤル・バスやターキッシュバスの周辺)まで広がっており、敷地内に複数の井戸が点在していたことが確認できます。「クラウン・ストロング・サルファー」や「ストロング・モンペリエ」と呼ばれていた鉱泉もありました。
当時、「オールド・サルファー・ウェル(現在のロイヤル・ポンプ・ルーム博物館)」は誰でも利用できるオープンエアの井戸でしたが、破壊行為が相次いだため、「クラウン・バス」の井戸が貴重な代替水源として利用されました。

1840年のガイドブックには、モンペリエ浴場について「美しい柱廊で飾られ、高い玄関ホールはドーム型の天井で照らされ、広い待合室は女性用が右、男性用が左に分かれていた」と記されていたそうです。

1835年、事件が起こります。スワン・イン(現在の「The Old Swan」)のオーナー、ジョナサン・シャットがオールド・サルファー・ウェルの水位低下に気付き、その原因がクラウン・ホテルでの掘削にあるとして、他のホテルオーナーや浴場オーナーを巻き込んで訴訟を起こしました。オールド・サルファー・ウェルはハロゲートにとって神聖な井戸とされていたため、この訴訟は大きな騒ぎとなりました。

1837年の裁判で、サックレイは自分の井戸を公共利用に提供することに同意し、その翌年に亡くなりました。(サックレイがハロゲートでのビジネスを行う中で、オールド・サルファー・ウェルの重要性を知らなかったはずはなかったでしょうし、彼の敷地内で次々と発見された井戸に対するライバルたちの嫉妬もあったのではないかと思われます。この出来事は、Crown PlaceのHeritage Plaquesに刻まれており、少し気の毒に感じます)

その後、モンペリエ・エステートは数回売却され、1888年にハロゲート・カウンシルが購入しました。

この敷地はハロゲートの中では、近くのボグス・フィールド(ヴァリー・ガーデンス)の次に多く鉱泉が湧き出している地域だそうです。
モンペリエ・バスが建設される前、この敷地はクラウン・ホテルの宿泊客の馬の放牧地として使われていました。地元紙に掲載された住民の回想録には「敷地の横を通ったとき、馬の足元に硫黄水がたまっていた光景をよく見かけた」という記述があったそうです。

クラウン・ホテル前のモンペリエガーデンズ(Montpellier Gardens)には、かつてモンペリエ・バスのチケットオフィスだった小さな八角形の建物が残っています。

ロイヤル・バス(Royal Bath)

ハロゲート ロイヤル・バス パーラメント・ストリート
古いポストカードより「Harrogate Royal Bath &Parliament Street」

ロイヤル・バスは、1897年7月23日にケンブリッジ公爵によって開館が宣言され、当日はハロゲート全体が飾られ祝賀ムードに包まれました。

19世紀後半、ハロゲートの改善委員会はロイヤル・ポンプ・ルーム以外のすべての既存の施設を買収し、ロイヤル・バスを町の中心的な温泉施設と位置づけました。ロイヤル・バスの建物は豪華で壮麗なデザインが特徴で、トルコ風呂の東洋的な装飾やヤシの木、ステンシル細工、大理石の大広間など、当時の最新の設備と豪華な内装が施されていました。更衣室、読書室、休憩室、娯楽施設も整備され、贅沢な空間が提供されました。世界のスパで提供されていたさまざまな施術が用意され、医師の監督下で包括的に提供されました。

ロイヤル・バスのポンプ室は、ハロゲート全域から鉱泉が送られるシステムになっていました。ロイヤル・バスの下の井戸からだけでなく、オークデール、スターベック、ハーロー・ヒル、ヴァリー・ガーデンズなどからも水を引き、さまざまな天然のミネラルウォーターを提供していました。

グランド・ポンプ・ルームには、かつて巨大な八角形のマホガニー製カウンターが設置されており、象嵌細工や壮麗な床とともに、ロイヤル・バスの優雅さと豪華さを象徴していました。ここでミネラルウォーターが提供されていましたが、1960年代後半、市の決断により、残念ながら取り除かれました。数年後の映画「アガサ」(アガサ・クリスティーの失踪事件にまつわる)の撮影のために、張り子で複製が作られるほど象徴的で貴重なものでした。

ロイヤル・バス内には飲料水ボトル詰め業務ができるエリアもあり、「キッシンゲン井戸」は訪問者に特に人気でした(「クラウン・バス」のサックレイ氏が発掘した炭酸水)。ボトル入りのキッシンゲン・ウォーターは世界に発送されるほど人気でした。(その名前はドイツの温泉地「キッシンゲン」に由来しています)

ロイヤル・バスは第二次世界大戦中も温泉施設として稼働しました。戦争の影響を受けつつも、ロイヤル・バスは多くの人々にとって重要な癒しの場を提供しました。
しかし、戦前は多くの富裕層や有名人が訪れていたものの、戦後は一般の観光客が増加し、経済的に余裕のある客層が減少しました。

国民保健サービス(NHS)の導入により、ハロゲートでの温泉治療の訪問者が増えたものの、1960年代には温泉産業全体が衰退し始めました。国民保健サービスが温泉治療の契約を打ち切ったことによりロイヤル・バスはスパとしての運営が難しくなり、1968年に民営化しました。そして、世論の大部分の反対にもかかわらず、1969年には市が人気のあったトルコ風呂以外のスパの閉鎖を決定しました。キッシンゲンの炭酸水の販売もロイヤル・バスの地下室で行われていたボトル入りミネラルウォーター事業もすべて廃止されました。

ロイヤル・バスの閉鎖後、数年間放置されたため、施設は劣化しました。国民保健サービスの利用の増加、海外旅行の増加、そして、スパは時代遅れであるという考え方が広がりました。議会によって建物の修復が行われたり、カフェとして改装されたりしましたが、スタッフ不足の問題や近隣の繁盛しているカフェ(ベティーズなど)に対抗できず、経営は困難を極めました。

観光客を獲得するために、市は観光地としての町の改善に努めました。展示会や会議施設の提供がハロゲートの未来の繁栄に重要であるとの認識が高まり、彼らの焦点が温泉治療から移行しました。

現在、この建物にはチャイニーズ・レストラン、大手パブチェーンのウェザースプーン、ツーリストインフォメーションなどが入っています。ロイヤル・バス時代の建物の元々の壮麗さの多くを保存し、歴史的な建築美を保ちながら再利用されています。チャイニーズ・レストランでは、格天井ドームやステンドグラスの窓といった歴史的な建築や装飾の美しさの中で食事を楽しむことができます。
ウェザースプーンでは、豪華な「メリー・ウィドウ」階段やガラス屋根の一部、また雰囲気のある入り口部分が残っています。

ターキッシュ・バス(Turkish Bath)

ターキッシュ・バスは、1897年にロイヤル・バスの一部としてオープンしました。豪華で贅沢な装飾が施されたこの施設は、当時の訪問者によると、アラビアンナイトを連想させるほど幻想的で美しい空間だったといいます。内装は贅沢で、タイルや木工品、アンティークカーペット、天井のステンシル細工などが施され、柔らかな照明によりまるで異世界のようだったとのこと。

ターキッシュ・バスは人気があったため、ロイヤル・バスの他の部分が閉鎖された後も営業を続けています。2004~06年にかけて大規模な改修工事が行われ、鮮やかな色彩と複雑な職人技が再び輝きを取り戻しました。

現在でも伝統的なヒートルーム、スチームルーム、プランジプール、フリギダリウム、スパ・トリートメントといったサービスを提供しています。
ターキッシュバスは通常は予約が必要です。水着も必要なのでお出かけの際はお忘れなく。

ボグス・フィールド(Bogs Field)/ヴァリー・ガーデンズ(Valley Gardens)

クレセント・ガーデンズ(Crescent Gardens)

ハロゲートテ クレセント・ガーデンズ
毎朝賑わっていたころのクレセント・ガーデンズ 古いポストカードより「Harrogate Crescent Gardens 8 a.m.」

クレセント・ガーデンズは、18世紀初頭に建てられた「クレセント・イン(Crescent Inn)」というホテルの跡地にあり、その名はその歴史的なホテルに由来しています。かつて建物は、現在のグロブナー・ビルディングス(Grosvenor Buildings)の前あたりに位置していました。

クレセント・インは、ロウ・ハロゲートのホワイト・ハートホテルやクラウンホテルと並び、1700年には存在していました。もともと「ザ・グローブ」や「ザ・ハーフ・ムーン」という名前で知られていましたが、1783年に敷地内で鉱泉が発見されてからは、19世紀中頃には自前の薬用泉を持つ繁盛したホテルとなりました。

ホテルの裏手には鉄泉と硫黄泉があり、これが後にビクトリア・バスとなりました。市の改善委員会は、1868年から1870年にかけてクレセント・インとビクトリア浴場を買収し、1890年代にはクレセント・ガーデンズの開発のため、クレセント・インが取り壊されました。

新設されたクレセント・ガーデンズは社交の場として重要な役割を果たしていました。訪問者は朝早く起き、「温泉儀式」の一環として鉱泉水を飲み、庭園を散策して楽しみました。クレセント・ガーデンズは、医師の指導のもとで健康を増進しようとする人々が集まるスパエリアでもありました。

ミネラルウォーターを飲むことや入浴を含む治療は当時のスタンダードな療法であり、ハロゲートを訪れる人々は、かかりつけの医師の処方箋を持参したり、滞在先のホテルや町の医師から処方箋を受け取ることが一般的でした。宿泊客は朝6時から7時に起床し、ロイヤル・ポンプ・ルームまで散歩して処方箋を提示し、ミネラルウォーターを受け取っていました。その場で飲むことも、持ち帰ることもできました。王室の訪問者は、召使にふた付きのグラスを持たせて自分の後ろを歩かせていたそうです。

ミネラルウォーターを飲んだ後、クレセント・ガーデンズを通り抜け、ヴァリー・ガーデンまでゆっくりと散歩するのが一般的なルーティンでした。クレセント・ガーデンズではバンドが演奏を行い、集まった宿泊客たちは社交を楽しんでいました。また、クレセント・ガーデンズでは、きちんとした振る舞いとスマートな服装が求められており、王族を含む著名な宿泊客も多くいましたが、ハロゲートでは厳格なエチケットにより、プライバシーが尊重されていました。

通常、宿泊客は午前8時から9時頃にホテルに戻り、朝食を済ませてから1~2時間ほど休息をとりました。これは、朝に飲んだミネラルウォーターが強力な浄化作用を持っていたためです。
クレセント・ガーデンズの周辺は、宿泊客の散策のために午前10時頃までは歩行者専用となっていました。また、20世紀初頭にはロングドレスが流行していたため、訪問者のドレスが汚れないよう、早朝7時前には道路が清掃されていました。道路は1日に2回清掃されていたともいわれています。

ハロゲート クレセント・ガーデンズ
毎朝賑わっていたころのクレセント・ガーデンズ 古いポストカードより「Crescent Gardens 8 a.m. Harrogate」

旧ビクトリア・バス(Old Victoria Baths)

1832年、数年前にハロゲートにやって来た地元の実業家ジョン・ウィリアムズが、クレセント・インの裏の土地を購入し、ビクトリア・バスを建設しました。当時、温泉治療を求めて訪れる観光客が増加しており、特別な施設が必要だと考えたウィリアムズは、ロー・ハロゲートに初の公衆浴場を建設したのです。

この建物は、建築家ジョン・クラークによって設計されたギリシャ風のイオニア様式の優雅な1階建てで、13の浴室を備えていました。建物のデザインは、後のハロゲートの景観に影響を与え、古典建築の流行を先導しました。グランヴィル博士によれば、ビクトリア・バスは「非常に立派なもの」とされ、温浴、冷水浴、シャワー浴、蒸気浴など多様な入浴方法を提供しており、当時のスパ文化を反映した施設でした。

それまでハロゲートは、田舎の牧歌的な陽気さに満ちた観光地でしたが、ジョン・ウィリアムズの参入により、ハロゲートで新しい競争が始まったと考察されています。また、それまで人気があったハイ・ハロゲートの鉄分を含む水に対し、1800年頃からは硫黄水が流行し、ロー・ハロゲートの温泉が注目を集めるようになりました。

翌年、ウィリアムズのライバルであるジョセフ・サックレイもモンペリエ浴場(後のロイヤルバス)を建設し、ビクトリア浴場と競合しました。

その30年後、市の改善委員会は、1868年から1870年にかけてクレセント・インとビクトリア浴場を購入しました。そして、1871年には道路を挟んだ敷地に「ニュー・ビクトリアバス」が建設され、ウィリアムズの浴場は「オールド・ビクトリア・バス」と呼ばれるようになり、その役割を終えました。

新ビクトリア・バス(New Victoria Baths)

1871年、改善委員会はクレセント・ガーデンに「ニュー・ビクトリア・バス」を建設しました。これに伴い、道路を挟んで向かい側にあった「ビクトリア・バス」は「オールド・ビクトリア・バス」と呼ばれました。

ニュー・ビクトリア・バスは広々とした玄関ホールや、男性用・女性用の治療室、入浴プールなどを備えた充実した施設でした。この建物は多様な設備を持ちながらも、わずか1年の短期間で完成し使用が開始されました。また、使用された硫黄水は、敷地内の泉およびボグス・フィールドの大部分から供給されていました。中央の玄関ホールの上には、改善委員会の会合用の部屋が設けられていました。ニュー・ビクトリア・バスは、モンペリエ・バス(後のロイヤル・バス)よりも大きく、観光客に人気を集めました。

1928年、市はスパ地区の再構築を図り、他のヨーロッパのスパに匹敵する大規模なプロジェクトを提案しました。この計画には、大規模な浴場や酒場が含まれており、屋根付きの通路によってビクトリア・バス、ロイヤル・バス、セント・ジョージ・ホテル(現The Harrogate Inn)を結ぶというものでした。しかし、スパに対する関心が薄れ始める中、一部ではビクトリア・バスを閉鎖し、入浴治療をすべてロイヤル・バスに集約しようという意見が出ていました。1897年により大規模なロイヤル・バスが開業してからは、ニュー・ビクトリア・バスの利用客が減少し、効率が落ちていたためです。このため、市議会内ではビクトリア・バスを閉鎖し、その建物を市庁舎として転用する計画が検討され始めました。

1931年、住民からの多くの反対を受けながらも、最終的にニュー・ビクトリア・バスは閉鎖され、その建物は市庁舎として転用されました。

浴場としての機能は終了しましたが、1871年から改善委員会が使用していた会合用の部屋はその後もオフィスとして使用されており、その伝統は今も引き継がれています。(なお、ハロゲートの市庁舎は2017年にキングスロードへ移転しています。)

チェルトナム・スパ・ルームズ(Cheltenham Spa Rooms)/ロイヤル・スパ・コンサート・ルーム(Royal Spa Concert Rooms)

ハロゲートテ チェルトナム・スパ
古いポストカードより 「Royal Hall, George and Majestic Hotels From Royal Bath, Harrogate」 「チェルトナム・スパ」は右下の建物

現在、ハロゲート・コンベンション・センター(Harrogate Convention Centre)のある場所には、かつて「チェルトナム・スパ・ルーム」が存在していました。

1818年、このエリアで鉱泉が発見され、アダム・ハンター博士がその水をチェルトナムの温泉水と比較したことから、「チェルトナム・スプリング」と名付けられました。この水は、後にヨーロッパで最も強力な塩化鉄水であることが判明し、ハロゲートにおける鉄泉として貴重なものとなりました。医療専門家たちに非常に評価され、数多くの愛飲家を惹きつけたのです。

ビクトリア・バスを建設したジョン・ウィリアムズが敷地を購入し、1835年に壮麗な「チェルトナム・スパ・ルーム」を建設しました。この建物は当時、ハロゲートの他のどの建物よりも壮麗であり、長い間「ハロゲートで最も完璧な建物」として知られていました。夜になると、内部は数多くの小さなカラフルなライトで照らされ、その光景はまるで「千夜一夜物語」のような幻想的な印象を与えていたと言われています。

建物には大きな集会室が併設されており、プロムナードや舞踏会、コンサートなどの社交や娯楽の場としても重要な役割を果たしていました。広々としたプロムナードエリアは、天候に関係なく利用でき、訪れる人々にとって快適な空間でした。また、チャールズ・ディケンズがこの場所でアメリカ訪問の報告会を行ったこともあります。

建物のデザインはギリシャ神殿を模しており、利用者はドーリア式の柱廊を通り抜けて、エレガントな雰囲気の施設へと入っていきました。「チェルトナム・ポンプ・ルーム」では、ミネラルウォーターが提供され、訪問客はその豊富なミネラル水を楽しむことができました。

さらに、ウィリアムズは建物の裏に6エーカーの土地を購入し、「スパ・ガーデンズ(またはローズ・ガーデン)」を整備。遊園地、ボート池、スケートリンクなどが設けられ、これらの施設は多くの観光客に娯楽とリラクゼーションの場として親しまれました。また、この敷地ではフラワーショーの第1回も開催されました。

しかし、時代の変遷と共に、壮麗だったスパ・ルームも1939年には取り壊される運命を辿りました。屋根の修理費用として700ポンドを節約するための決定だったと言われており、非常に残念な結果でした。

その後、2000年にハロゲート国際センターのミレニアム展示ホールが建設されるまで、この中心地の場所は長い間空き地のままでした。1939年以降、旧スパ・ルームで使われていた6本のドーリア式柱は保管されていましたが、ミレニアム展示ホールの建設時にはこれらを復元する声が上がったものの、オリジナルの柱はハーロー・カーのフォリーとして再建されました。

現在のハロゲート・コンベンション・センターの正面には、かつての素晴らしいスパ・ルームへの敬意を表してレプリカの柱が設置されています(が、そのデザインや質があまり良くないとされ、評判はあまり芳しくなかったようです)。

ハロゲートテ チェルトナム・ガーデンズ ロイヤル・ホール・ガーデンズ
古いポストカードより
「Royal Hall Gardens, Harrogate」
「スパ・ガーデンズ」のマジェスティック・ホテルがよく見えます

コールド・バス(Cold Bath)

ハロゲート コールド・バス

コールド・バス・ロード(Cold Bath Road)は、オールド・サルファー・ウェル(ロイヤル・ポンプ・ルーム)からコールド・バスまでを結ぶ道です(かつてはロビン・フッド・レーン(Robin Hood Lane)と呼ばれていたことも)。コールド・バスはかつてコールド・バス・ロードの南側に位置していた冷水浴場で、コールド・バスを記念するHeritage Plaque(記念銘板)が設置されています(現在はハーロウ・マナー・パーク・ロード(Harlow Manor Park Road)の向かいのゲート)。

「コールド・バス」という名前は、かつて「コールド・ウェル(Cold Well)」と呼ばれていた古代の井戸に由来しています。この井戸は、その名の通り非常に冷たく澄んだ水が湧き出ており、冷水浴が健康に良いと信じられていた時代に、浴場で使用されていました。特に目の病気に効果があるとされ、17世紀から18世紀にかけて治療目的で使われていました。1778年には、この泉は「共通の水場」として正式に認定され、「セント・マグナス」や「セント・マンゴの泉」とも呼ばれていました。

1837年、ジョセフ・ホールズワースが当時放置されていたコールド・バスの浴場を購入し、「セント・マグナス」という施設を建設しました。この施設では、浴槽、シャワー、ニードル風呂などが設置されていたことが記録されています。

スターベック・スパ(Starbeck Spa)

「スターベック・スパ」は、ハロゲート近郊のスターベックに位置し、その鉱泉は1626年に初めて記録されました。18世紀には荒廃したものの、1822年、スターベックの「オールド・スパ」を復元するための運動が始まり、復興が図られました。スターベックはナーズバラに含まれていた時期もあり、そのため「ナーズバラ・スパ」とも呼ばれていました。1828年にはゴシック様式の小さな建物に入浴施設が設置され、1852年にはビクトリア朝の「チューダー」様式の2階建ての大きな建物が建設されました。

1870年には「プリンス・オブ・ウェールズ」浴場が建設され、水泳やスパトリートメントに利用されるようになりました。1900年から1904年にかけては、スターベック鉱泉の水をハロゲートの「ロイヤル・バス」に送るためのパイプラインが敷設されました。

スターベックの温泉水は、硫黄泉と鉄分泉であり、特に17世紀から18世紀にかけて多くの人々に利用されましたが、19世紀初頭にはハロゲートの繁栄によって徐々に放置されるようになりました。これは地域内の利害対立によるものとされています。1877年に行われた分析では、肌に心地よい効果をもたらすアルカリ炭酸塩が豊富に含まれていたということです。

ハーロウ・カー(Harlow Carr)

ハーロウ・カーでも、穏やかなアルカリ性の硫黄泉や鉄分を含む単一の泉を含む7つの鉱泉が発見されていました。
1844年、ヘンリー・ライトがその美しい景色に惹かれ、ハーロウ・カー・ホテルと浴場を建設し浴場の周囲に庭園を造りました。これらの建物はゴシック様式で建てられ、現在でも両方の建物が残っています。

ホテルは現在「ハロゲート・アームズ」というカフェとして使われており、浴場だったものは王立園芸協会(Royal Horticultural Society:RHS)の事務所になりました。カフェは現在のハーロウ・カー植物園から少し離れた場所にあり、鉱泉の井戸はすべて埋め立てられています。

また、ハーロウ・カーには、かつて「チェルトナム・スパ・ルームズ」の建物の正面を飾っていた柱が、ハーロウ・カー・ガーデンのフォリーとして再建されています。

ベンウェル・ハウス(Benwell House)

ベンウェル ハウスは、かつてコーンウォールロード沿いにあった18世紀の建物で、オールド サルファー ウェル(Old Sulphur Well)を望む良いロケーションに位置していました。かつてコーンウォール・ハウスと呼ばれていた宿泊施設の斜め向かいにあり、大規模なホテルとは異なり、オーナーによる特別な配慮を求める宿泊客に評判の高い宿泊施設でした。

このベンウェル ハウスには、ハロゲートで有名だったスタッフ、ナニー・アンソン(Nanny Anson)という女性がいました。彼女は、現在でいうチャイルドマインダーのような役割を果たしており、裕福な層の人々が、子供を預けて自分たちの活動に集中するために、彼女のサービスをよく利用していました。

1900年、ヴァリーガーデンの拡張と整備のためにハロゲートのカウンシルがその一帯の家屋をすべて買い取りました。1920年代にベンウェル・ハウスが解体される際にその建物の下から鉱水が発見されました。分析の結果、この鉱水には硫化物や鉄分の含有量は微量だったものの、硫酸塩の含有量が他のハロゲート内の井戸のものよりも2倍で、非常にユニークな特質を持っていることが分かりました。

この井戸はハロゲートの公式井戸リストの89番目に登録されましたが、1970年代にはハロゲート内の他の多くの井戸と同じように埋め立てられるという運命をたどりました。

ハロゲート・ハイドロ(Harrogate Hydro)

ハロゲート・ハイドロ(Harrogate Hydro)は、現在の「オールド・スワン(The Old Swan)」ホテルにかつてあったハイドロパシー・ホテルです。鉱泉の井戸を所有していたかどうかは確認できていませんが、ハイロドパシー(水治療法)を提供していた歴史的なホテルとして一緒に記しておきます。

オールド・スワン・ホテルの歴史は18世紀に遡り、1777年に「スミス・アームズ」または「ブラックスミス・アームズ」という質素な宿屋として始まりました。1782年にトーマス・シャットがこの宿屋を買収し、より洗練された名前「ホワイト・スワン」に改名(スワン・インとも呼ばれた)。ロー・ハロゲートで最も重要な宿の一つとなりました。

19世紀には、歴代オーナーの一人ジョナサン・シャットが、クラウン・ホテルによる公共のオールド・サルファー・ウェルの鉱水転用を巡る訴訟を起こしたことで知られています。彼の息子、アイザック・トーマス・シャットは、ロイヤル・ポンプ・ルームやセント・ジョンズ・ウェルの設計、クラウン・ホテルの増築にも携わりました。

1878年、リチャード・ヴィール博士の手によって「ハロゲート・ハイドロ」に改装され、トルコ風呂を備えた豪華なハイドロパシー施設として生まれ変わりました。ここでは、水治療法を中心とした療法が厳格に行われ、顧客には質素な生活、運動、新鮮な空気、そしてミネラルウォーターの摂取が重視されました。

1926年には、著名な小説家アガサ・クリスティが失踪した際、イギリス史上最大規模の捜索劇が展開された後、このホテルで発見されました(この時期は「ハロゲート・ハイドロ」時代)。第二次世界大戦中、ホテルは陸軍省に接収され、1952年に「オールド・スワン(The Old Swan)」として改装・再オープンしました。

1977年には映画「アガサ」の一部がこのホテルで撮影され(アガサ・クリスティーの失踪事件にまつわるストーリー)、ダスティン・ホフマンやヴァネッサ・レッドグレーブが出演。さらに、オールド・スワンには1873年にカール・マルクス、1963年にベンジャミン・ブリテンなど多くの著名人も訪れています。

現在のオールド・スワン・ホテルでは、19世紀の豪華さを残しつつ、広々とした客室や美しい庭園を楽しむことができ、ハロゲート国際フェスティバルの人気会場の一つとしても知られています。

ケアン・ハイドロ(Cairn Hydro)

ケアン・ホテルは、1889年に「ケアン・ハイドロ」として建てられた、ハロゲートで2番目にハイドロパシーを提供した大規模なホテルです(1番目はハロゲート・ハイドロ)。ハロゲート・ハイドロ同様、鉱泉の井戸があったかどうかは不明ですが、ハイドロパシーを提供していたという点で一緒に記しておきます。

イギリスではハイドロパシーがいくつかの地域で広まりました。1846年にはイルクリー近郊でハイドロパシーホテルがオープンし、ハロゲートもその影響を受けました。1878年にはハロゲート・ハイドロでハイドロパシー提供が始まり、1890年代にはケアン・ハイドロやハーロー・マナー・ハイドロといった大規模施設が次々にオープンしました。
ケアン・ハイドロはトルコ式風呂、テニスコート、広大な庭園を備え、由緒あるオールド・スワンに匹敵する規模でした。

現在はホテル営業のみです。

ハーロウ・マナー・ハイドロ(Harlow Manor Hydro)

ハーロウ・マナー・ハイドロは、かつてコールド・バス・ロード沿いに広がる大きな敷地内にあった壮大な施設でした。現在は住宅地になっていますが、当時はヴィクトリア朝様式の美しい6階建ての石造りの建物があり、その規模と充実した設備から「世界最高のハイドロ施設の一つ」とも称されていました。こちらもハイドロ施設として記載しておきます。

この建物は1875年、リーズの建築家ジョン・ミリングによって私邸として設計され、1893年にハイドロパシー施設へと改築されました。「ハーロウ・マナー・ハイドロ」は、豪華なホテルと治療施設を兼ね備えた場所として利用され、エレベーターや電気照明が完備されていました。劇場やレクリエーションルーム、ウィンターガーデン付きのダイニングルーム、応接室、図書室、読書室、ビリヤードルーム、喫煙室など、多彩な施設が揃い、300名の宿泊客を収容することができたといいます。その規模の大きさがうかがえますね・・・。

屋外には、テニスコート、クロケット場、ボーリング場、美しい庭園があり、さらに馬小屋や40台の車を収容できるガレージも備わっていました。もともとは私邸として設計されたとはいえ、非常に大きな建物であったことがわかりますし、当時の地図を見ても敷地が広大です。おそらく庭園は美しく整備されていたんだろうなと思います。

ハーロウ・マナー・ハイドロでは、電気治療、トルコ式浴場、サージバスなど、当時の最新の水療法が提供されていました。さらに、この施設はプリンス・オブ・ウェールズのラウンドアバウト近くにあったブランズウィック駅(Brunswick Station)からのアクセスが良く、多くの利用者に利用されていました。

ハロゲート ハーロウ・マナー・ハイドロ
Image : Harrogate Library Facebookより お城かと思うほど大きな建物!

おわりに

ハロゲート ポンプ・ルーム・博物館
ハロゲートのモットーだった 「Arx celebris fontibus」

ハロゲートには、他にも小規模な温泉施設やハイドロパシー施設が点在していました。19世紀や20世紀の地図を見ると、町のあちこちに鉱泉の井戸があったことが確認できます。

ロイヤルポンプルームとニュー・ビクトリアバスには「Arx celebris fontibus」というラテン語の碑文が刻まれており、これは「泉で有名な町(城塞)」と訳され、町のモットーとなっていました。書籍やウェブサイトをリサーチする中で、古い地図には記載されていない温泉名もありましたが、多くの場所で鉱泉が湧き出ていたようです。中にはわざわざ採掘されなかったものや、発見されないままだった鉱泉もあったのではないかと思われます。

たとえば、ウエストパーク前のストレイには「セント・アンズ・ウェル」があり、ロー・ハロゲートには「クラーク浴場」として知られる小さな私設浴場もあったようです。また、コンベンションセンター近くのKings Roadでは、2010年に「キングス・ロード・プロムナード・ウェル(Kings Road Promenade Well)」が再発見され、Heritage Plaqueが掲げられています。こうした事実を知ると、どれだけハロゲートが豊かな鉱泉地であったのか、改めて感心せずにはいられません。

再発見されるものもあれば、時代の流れで塞がれてしまった井戸や解体されてしまった美しい建物もあったことは少し残念に思います。それでも、美しいハロゲートについてリサーチすることは、新たな発見の連続で、とても楽しい経験でした。もしタイムスリップできるなら、中世やビクトリア時代のハロゲートをぜひ見てみたいものです。

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